ある選手の経験談より

小栗山裕太さん

 

 

サッカー歴等

 

九十九里JFC→ACカラクテル→私立千葉黎明高校→JAPAMサッカーカレッジ→アルビレックス新潟シンガポール

シンガポールから帰国後、単独でセルビアへトライアウト。

帰国後、10年間続けた選手生活を断念し指導者の道へ。

約3年間、幼児〜高校年代までの指導に携わりました。

現在は、漁師&飲食店従業員として生活を送っています。

 

サッカーを始めたきっかけ

 

小学校のクラブ活動。

ちょうど、2002年日韓ワールドカップの年という事で日本中がサッカー、一色になっていた事も大きな影響があったと思います。

 

 

サッカーで海外挑戦して学んだ事

 

海外に挑戦した人のほとんどが…技術、フィジカル面の特徴を話しています。(実際そうですが)

しかし、海外では全てが、日本の環境と違ってきます。

僕は、シンガポール、セルビアと2ヶ国でプレーをしました。

1番、苦労した事は『言葉』でした。

特に2ヶ国目のセルビアでは、練習参加の交渉、チーム探し、家賃の交渉など全て僕1人での作業でした。

僕のお世話をしてくれている人も、セルビア人だったので、もちろん日本話も通じない。

更に世界共通と言われている『英語』も通じない。

この時点で某英語教室会社は、詐欺だと思いました。

セルビア語の本を片手に何とかコミュニケーションを取っている日々でした。

日常生活でコミュニケーションが取れないのなら、もちろんプレー中のコミュニケーションも上手くいくはずがない。

そして明らかに日本と違う、技術、フィジカル。更には、文化や宗教などの違いでもサッカーが変わってくるのです。

シンガポールでプレーしていた時は、『ラマダン』という断食を目にしました。

5月〜6月までの間、イスラム教徒の人々は日の出から日没までの間、食べ物はもちろん、水分も取ってはいけない断食です。

もちろん一般の人達だけでなく、シンガポールでプレーしている選手もです。

練習中も宗教のルール上、水も飲めない。凄い選手はツバでさえ飲まなかった光景を覚えています。

この期間だけは、通常、公式戦は19時キックオフなのですが、ラマダンを行なっている選手の為に、1時間遅らせてのキックオフになります。

試合を控えている選手達は、試合前、日没になった瞬間(シンガポールの日没は18時30分くらいだったかな?)に、試合に向けて食事を摂る事ができます。そんな体力のギリギリの選手が良いプレーができると思いますか?凄く難しい事だと思います。ギリギリの状態でプレーしている選手は、ラフプレーも当たり前。審判への抗議、暴言など、いつも以上の物を感じました。言葉、技術、フィジカル。もちろん大事な事です。だけども、その国の宗教。現状を知っておく事は物凄く大事です。何も調べずに、その国の人と触れ合うという事は非常に危険な事だと感じました。サッカーが巧ければ海外で成功できる。これは絶対に大きな間違いです。僕が海外で学んだ事は、今後の人生に大きな影響を与えてくれました。

 

サッカーでセカンドキャリアを意識したきっかけ
きっと誰もがサッカーだけで、生活をしたいと思っていると思います。

何万人という観客がスタジアムで自分を応援してくれる、そんな中でプレーできたら、どんなに幸せでしょうか?僕もそんな夢を追っている1人でした。

 

僕自身が選手生活を断念したのは、22歳の時でした。

セルビアのトライアウトは想像以上に厳しく、今だから言えますが、自分自身、プレイヤーとしての限界を感じた時でした。

今まで、どんなにキツイ時があっても誰よりも諦める事が嫌いだった僕が、初めて諦めた時でもありました

自分が目指していた世界はこんなにも厳しく、そして、その世界で何もできなかった。

帰国後、考えた結果は選手生活を断念する事でした。

『22歳』

皆さんはこの年齢になにを思いますか?

ちょうど僕が選手生活を断念した時も22歳。

同期の人達は、就職先が決まり、社会人としての一歩を踏み出している時でした。

サッカー界で例えますが、22歳というと丁度、大学卒業の年。

皆さんはサッカー界の移籍リストなどを見た事ありますか?

見て頂けると分かると思いますが、大学生以上の人達が、プロ入りするという事は、ほとんどありません。

プロのスカウト達も、やはり将来性などを考慮すると『22歳』という年齢は、将来プロとして活動できるか、見極める『ボーダーライン』でもあると思っているのではないでしょうか?

もちろん、諦めずに地域のチームに入団しながら、選手生活を送っている人もたくさんいます。

だけど、その期間が長くなればなるほど、選手としての価値は失われていく。

僕自身が目指してきた世界の厳しさをセルビアやシンガポールで知った以上、このまま選手として、続けても僕自身が目指してきた世界には入れないと感じた時でもありました。

この文章を読むと物凄く冷めた事を言っているようですが…。

本当にキツイですよ。この世界。笑

甘くないですよ。

 

 

小栗山裕太選手は、ボアスフェリアス設立前に、私が指導者として携わらせて頂いた選手でありました。

彼は文中にもある通り、諦めることが嫌いで、常に努力してきた選手でした。

しかし、海外挑戦により、現実を考えることにより、セカンドキャリアに進むこととなりました。

彼はテレビ出演等でも紹介されたことがありますが、常に前向きに努力し続けています。

今後も彼のセカンドキャリアを応援致します。